違和感の正体(のひとつ)

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今朝の新聞のコラムを読んでいて、ネット等で見かけるあれやこれやで感じる違和感の正体の一つに気づく。そういうのをしっかり言葉に出来るっているのはやっぱりプロだなぁ、と思いつつ。

誰かが何かを叩くときに、「社会正義」とか「国益が」云々、とか言った、いかにも格好良さそうな言葉が踊ると、それだけでなんだかうさんくさくなる気がするんですよね、わたし。

それって典型的な「虎の威を借るなんとやら」的論法だなぁ、ってやっと気づきました。

何かを叩いてる人や団体もかな、そういうのの多くが、叩いてる主体がいつの間にかすり替わっちゃってる気がするんですよね。

場合によっては口汚い言葉まで並べて叩いてるのの主語が、いつの間にか(あるいは最初から)自分自身ではなくなっちゃってる。

自分の主張を「何かよく分からないけど自分よりも権威がありそうな何か」に担保してもらいたい、って無意識からの動きなのかもしれませんけどね。

そうやって話してるうちに、自分自身が用意したそういう仮想の何かに酔う、というよりは「溺れちゃってる」のかなぁ。

発言してる内容は間違いなく自分自身が発した言葉であるにもかかわらず、そういう発言をする人の中では無意識のうちに言葉を発する主体が、自分以外の「何かよく分からないけど自分よりも権威がありそうな何か」にすり替わっちゃうから、どんな酷い言葉を発するにも抵抗がなくなっちゃうのかなぁ、と。

自分が今吐く言葉を、ホントに自分を主語として発言できる言葉なのかは、毎度意識した方がいいのかもしれない。

もっとも、日本人って昔からそういう所ある気もしますけど。
「世間が」云々、「世間体が」云々。
元々、日本人って、自分の言葉として語るのが苦手だったのかもしれませぬ。